前田利家って知ってます?「槍 やりの又左」と呼ばれて若き日の豊臣秀吉とは昵懇じっこんの仲。今回は前田利家と金沢城を紹介しますね✨
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金沢城のルーツはは加賀一向一揆の拠点だった‼️
文字を読めなくとも「南無阿弥陀仏」と一言題目を唱えれば「極楽に行ける」と言う親鸞聖人のその教えは、圧政と戦乱の世に苦しむ農民を中心に爆発的に信者が増えていきました。
ただ時は戦国時代。
そうした一向宗門徒は次第に団結し、時に 独自の戦闘集団となっていきます。
1488年(長享2年)加賀国守護大名の富樫政親の統率や弾圧に苦しんだ一向宗門徒と国人達が反乱を決行。
富樫政親の高尾城を囲い込み遂には自刀に追い込みます。
後にこの戦いを「加賀一向一揆」と呼ばれるようになるのですが、反乱を起こさなくてはならないほど戦国期の「支配」がいかに過酷なものだったかが伺えますね。
また、一向一揆の勢いはそのまま衰えず、蓮如の息子の蓮悟・蓮綱・蓮誓らを中心に「百姓の持ちたる国」。
つまり、一揆及び北陸における本願寺の拠点として1546年に門徒宗が建立した「金沢御堂」(金沢城の本丸跡付近)。
その「金沢御堂」に 浄土真宗本山の大坂本願寺 から派遣された御堂衆 (僧)や坊官 (俗事 ・外交・軍事)の指導によって、僧・武士・農民や商人らが、話し合いをして治める共和国家を形成。
日本で唯一、戦国大名の居ない国としておよそ100年間続いて行きます。
柵を巡らせ堀で囲んだ外観は寺院というよりは城に近いものであり、この時点で後の金沢城の片りんが伺えます。
こうした金沢御堂を囲む形で 後町、南町などの寺内町がつくられ 、金沢の街の基礎部分が形成されていきました。
まさに加賀一向宗の中心地として、大阪における石山本願寺とも連携していくんですね。
金沢城の初代城主は信長の家臣の佐久間盛政
天正元年(1573)「天下統一」を目指す織田信長。
信長が傀儡として利用していた足利義昭の工作により、一度は四面楚歌に陥ったものの、上洛途中の武田信玄の「死」によって状況が激変。
越前の朝倉義景を滅ぼし北陸地方に侵攻。金沢御堂に迫ります。
しかし織田軍にとって最大の敵は「南無阿弥陀仏」と唱えれば「死」をも恐れず 「進むは極楽浄土、退くは無間地獄」と進軍を阻止してくる前述の一向宗門徒でした。
同時期、蓮如率いる石山本願寺(大阪城の前身)や伊勢長島とも敵対していた信長はこの間、一向一揆勢力を根絶やしにしようと画策。
天正2年1574年6月から9月にかけての第三次長島侵攻 では伊勢長島の一向一揆勢力を根絶。
天正8年(1580年)8月2日には本願寺教如を石山御坊から退出させて石山本願寺を奪取。
浄土真宗本願寺勢力を大阪から排除し10年に及ぶ戦いに幕を引きます。
同年、ここ金沢御堂も信長の家臣の柴田勝家と甥の佐久間盛政により討ち込まれ、およそ100年続いた加賀一向宗門徒による共和国もここに崩壊。
領主となった盛政によって金沢御堂は「金沢城」と改名。
もともと堀や柵で武装していた金沢御堂は殆ど手をかけず、すぐさま城としての機能を発揮して行きます。
大阪の石山本願寺を奪取後、ここに新しい城を作りたかった信長ですが、実現を果たせずに(のちに豊臣秀吉が跡地に大阪城を作った事で実現)明智光秀の謀反にて自刀(本能寺の変)。
その後、信長の跡目争いについて合議した清須会議で対立した豊臣秀吉と柴田勝家ですが、天正11年(1583年)4月、ついに賎ケ岳の戦いで対決。
柴田勝家側についた金沢城主の佐久間盛政でありましたが、敗戦により捉えられて斬首。
実は、秀吉にその才を惜しまれ配下に就く事を進められましたが、柴田勝家に対する義を通し、敗残兵として敢えて処刑される事を希望したといいます。
悲しいけど男らしいですよね…。流石「鬼の玄蕃」と言われた漢です。
前田利家登場
天正11年(1583年)秀吉は賎ケ岳の戦いで功績のあった前田利家に北加賀の領地を与え、能登国七尾の城から金沢城に入城させます。
実は前田利家、賎ケ岳の戦いにおいてどちらに就こうかかなり迷っていたんですね。
話は遡りますが、若かりし頃の利家は豪快で短気!世に言う「歌舞伎もの」だったようです。
で、些細な事( 利家の大事にしていた髪結い道具を盗んだ事)で主君のお気に入りの同朋衆「拾阿弥」 を斬り殺してしまったんです。
これは「ちょっと…いけないです…」
当然信長は激怒!手打ちにされそうになりますが、これをかばってくれたのが柴田勝家。
結果、織田家を追い出されますが、それでも命だけは勝家の嘆願により回避。
言わば命の恩人なんですね。優しい先輩だったんです。
それに対して秀吉とはまだ彼が木下藤吉郎とよばれていた頃よりのお隣さん。
織田軍団生え抜きの利家ですが、気さくで人たらしの秀吉とは年も近く互いに何でも言える仲。
いいですね!若い頃からの友達は持ってるだけで財産です。
また、利家の妻のまつと秀吉の妻のおねとは味噌や醤油がなければ借りに行く…。
そんな関係だったんですね。
友を取るか義を取るかさんざん迷ったあげく勝家軍に加わったのですが、戦の最中、どうしても秀吉と戦うことができずに撤退。
友達を取ったんですね。いい選択です。私でもそうします。
しかし勝家としては「そりゃ~無いよ~」となる訳ですが、前線で戦っていた利家軍がいきなり撤退したものですから後方部隊も「すゎ!負け戦か!」と連鎖して撤退。
戦意も消失。負け戦となってしまいます。
加賀百万石
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前田利家すなわち加賀百万石と思っていませんか?
でも利家が金沢城に入る3年前の天正9年(1581年)の領地は信長から与えられた能登一国(21万石)、尾張、越前と合わせて知行25万石の大名だったんですね。
そして前述の賎ケ岳の戦いの後、天正11年(1583年)佐久間盛政の旧領のうち加賀二郡(13万石)を加増され、本拠地を能登から加賀の金沢へと移し、金沢城主になったんですがその時点で38万石。
さらに天正13年(1585年)には佐々成政と戦った功績(富山の役)によって嫡子利長に越中のうち射水・砺波・婦負三郡32万石が与えられて、加賀・能登・越中3カ国の約83万石の大大名になっていきますが、加賀藩が百万石を超えるのは利長の代、関ヶ原の戦いで東軍について参戦の36万石の加増で119万石になった後からのお話です。
明治まで続いた加賀百万石
徳川政権下の加賀藩の石高は文久3年(1863年)の幕府大目付調べによると2位の薩摩藩を48万石離して堂々の1位。(徳川将軍家の400万石を除く)
それだけに幕府に警戒されない様に常に気を配り、3代目の利常(利家の側室の子)等は、幕府に警戒されない様に伸びた鼻毛をそのままにして愚か者を装ったという逸話があります。
しかしこの利常決して凡庸ではなく、支配機構の整備をして藩体制を確立させる等、むしろ利長よりも利発だったとされ、利常の孫綱紀は、学者を招き学問を振興し加賀藩における文化を高めた名君と称されます。
その綱紀の代に兼六園も造営されました。
また、加賀藩は明治維新を迎える時まで、徳川政権下では最大の大名としての地位を守り通していきますが、徳川将軍家とも姻戚関係が深く、2代将軍徳川秀忠の娘・珠姫が3代当主利常に嫁ぐ等、多くの正室を徳川将軍家から迎えました。
為に家柄も高く「御三家」の次に配せられ、御三家等同様に大廊下詰での将軍拝謁が許され、松平姓と葵紋の使用も許されています。
江戸の藩の石高ランキング
(文久3年幕府大目付調べ)、
順位 国名 藩名 石高 初代藩主 初代藩主の父 文久3年の藩主 藩格
1 加賀 金沢 120万石 前田従三位中納言利長 前田利家 前田正二位権中納言斉泰 外様 2 薩摩 鹿児島 72万8000石 島津従三位中納言家久 島津義弘 島津修理大夫忠義 外様 3 陸奥 仙台 62万石 伊達権中納言政宗 伊達輝宗 伊達左中将慶邦 外様 4 尾張 名古屋 61万9500石 徳川従二位権大納言義直 徳川家康 徳川義宣 三家 5 紀伊 和歌山 55万5000石 徳川従二位権大納言頼宣 徳川家康 徳川茂承 三家 6 肥後 熊本 54万石 細川従三位参議忠興 細川藤孝 細川正四位下左中将 外様 7 筑前 福岡 47万3000石 黒田従四位下筑前守長政 黒田孝高 黒田従二位左中将長溥 外様 8 安芸 広島 42万6000石 浅野従四位下紀伊守幸長 浅野長政 浅野従四位下左少将長訓 外様 9 長門 萩 36万石 毛利従三位権中納言輝元 毛利隆元 毛利従二位権大納言敬親 外様 10 肥前 佐賀 35万7000石 鍋島従四位下侍従勝茂 鍋島直茂 鍋島従一位肥前守直大 外様 11 常陸 水戸 35万石 徳川正三位権中納言頼房 徳川家康 徳川従三位権中納言慶篤 三家
http://kitabatake.world.coocan.jp/rekishi3.htmlより一部抜擢
金沢城には天守閣がありません。
落雷のため焼失してしまったのですが、その後、天守閣が再建されることはなく、末代まで、金沢城は天守閣がない城だったのです。
焼失した天守を以後再建しなかったのは、やはり幕府に警戒されない様に常に気を配っていた最事の現れなんですね。
しかし見かけは悪くとも中身は機能的、外観は三層櫓だが中に入ってみれば5階にしてあり、櫓を天守閣に置き換えていざという時に備えました。
金沢城は14代藩主の慶寧まで約300年間、前田家の居城として外様大名でありながら、減封や改易されるといったことも無く加賀百万石の体裁を保ってきましたが、幕府に警戒されない様に常に気を配っていたといった心構えが功を奏したと言っても過言ではないかと思います。
そうした徳川家の繋がりから大政奉還の際、藩意としては徳川慶喜を支持。しかし幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗北した後は新政府の北陸鎮撫軍に帰属し、維新後は加賀藩から海軍にとの流れが加速していったようです。
現在の金沢城
金沢城は陸軍第9師団の施として明治から終戦まで使用されていましたが、終戦から平成7年までは金沢大学が移転するまでキャンパスとして利用。
その後平成8年に大学跡地を公園として整備が施され、平成13年(2001年)、 菱櫓や河北門、いもり掘を復元した金沢城址公園として開園しました。
また、平成27年(2015年)には、橋爪門の復元や歴代藩主の内庭として前田利常が手掛けた玉泉院丸庭園(廃藩と共に廃絶していたもの)の整備が完了。
特に 玉泉院丸庭園 では素敵な日本庭園を満喫 。
園内にある 「玉泉庵」では抹茶と季節によって変わる生菓子のついたセット(720円)が味わえますので、散策の途中にどうぞ。とってもゆったりした気分が味わえますよ!
毎週金・土曜、祝日の前日には夜間も開園、ライトアップされた庭園がとても美しく、必見です。
ま と め
加賀百万石・前田利家というイメージが強い金沢城ですが、前身は金沢御堂という一向宗徒の寺院でした。
歴史の流れからみると豊臣秀吉の大阪城の前身もまた石山本願寺という一向宗徒の寺院。
共に織田信長の天下統一の要の城として一方は利家が改装し、一方は秀吉が作った城。
けれど、金沢城は残り、大阪城は焼失(現存の大阪城は徳川家によって再建されたもの)。
その違いは、残されたものが時代の流れを目敏く、読んでいたか否かという事だと思います。
金沢城の石垣を眺めるにつけ、およそ440年間の歴史の重みをただ……ただ感じてしまうところですが、大火に何度も合いながらも、その都度乗り越えてきた金沢城は、きっとこの先もずっと輝き続けていく事でしょう。
※このブログは2018年2月に訪れた金沢城を元に書きました。新型コロナウィルスの一日も早い沈静化を願います。
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