『清須城』の城主達とその歴史!(『清州同盟』・『清洲会議』)

 

 清洲城ってご存知ですか?歴史好きにはある意味堪らないお城かも…何しろ織田信長のゆかりのお城ですし、徳川家康とは『清州同盟』。本能寺の変で信長亡き後は、豊臣秀吉や柴田勝家が参加した『清洲会議』なんて歴史を左右する会議とかも開かれました。今回は清洲城についての歴代城主と築城から現在に至るまでの歴史を解説して行きますね

目  次

 

清洲城の歴代の城主とまつりごと

清州城歴代城主についての説明文

清州城歴代城主についての説明文

初代城主 斯波義重

清洲城の最初の城主は上記の説明文によれば織田信長なんですが、元々は尾張の守護所だった下津城の別邸として室町幕府の有力守護大名の斯波義重が築き、織田敏定守護代としたのがはじまりなんですね。

時は今からちょうど615年前の応永12年(1405年)【因みに応永という時代は日本の元号の中では、昭和明治に次いで3番目の長さ(35年)だったそうです】

また 斯波義重自身の役職は官領で、将軍を補佐して幕政を統轄するという、いわば幕内ナンバー2の重職でした 。

また、義重は 尾張を初めとした斯波氏の守護国の中でも特に鎌倉街道と伊勢街道が合流し「交通の要所」と言われる尾張の領国経営を重要視していましたので、織田氏・甲斐氏・二宮氏を給人として国衙領から年貢を徴収させる形を作ったり、領国内の国人(地頭等)を被官化させる主従関係を構築したりして領国支配を強化しました

・守護大名一覧
  • 斯波氏尾張・越前・遠江・越中・加賀・信濃
  • 畠山氏 – 河内・能登・越中・紀伊・山城
  • 細川氏 – 和泉・摂津・丹波・備中・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐
  • 一色氏 – 三河・若狭・丹後・伊勢(北)・志摩・山城・尾張
  • 赤松氏 – 摂津・播磨・美作・備前
  • 京極氏 – 出雲・隠岐・飛騨

 

清州城が守護所に移行

1476年(文明8年)、「応仁の乱」から続く流れの中、斯波義重の孫である 義敏よしとし の代に起きた斯波氏の家督争い

先述の守護代であり「織田大和守家」当主でもある織田敏定がこれに介入、本家の「織田伊勢守家」当主の織田敏広の守護所・下津城を攻め込み落城・消失させてしまいます。

これにより1478年(文明10年)、守護所が下津城から清洲城へと移り、斯波 義廉よしかど  が織田大和守守護代として支配をして行くのですが、

応仁の乱の屏風

応仁の乱の屏風

 

守護所となった清洲城はこれ以降、守護代織田家の本拠として織田大和守家尾張下四郡(愛知、知多、海東、海西郡)の領地を継続支配していくんですね

 

織田信長

清州城と言われて真っ先に思い浮かべるのは戦国大名の覇者織田信長ではないでしょうか?魔王とか第六天使とか言われた合理主義のイケメン。

現代の佐藤健君ばりですね。

その清須城ですが。一時期、斯波三奉行の一人となった信長の父・織田信秀のぶひでが清洲奉行として居城としたこともありましたが、それ以外は常に前述した織田大和守家の居城、

信秀が古渡城に拠点を移すと、織田大和守家織田信友が入城します。

しかし、弘治元年(1555年)信長と軍事協定を結んだ織田信光によってその信友が抹殺されてしまいます。

それに乗じて、信長が那古野城から移って城をリノベーション。

清須城の城主となるんですが、このあたり正に下克上ですね。実力主義!私だったらぼーっとしてる間にやられてチコちゃんに怒られそうです。

ところで、早朝に信長と非常収集で駆け付けた幾何かの兵で熱田神宮に必勝祈願。そして雷雲降り注ぐ桶狭間であの今川義元勢2万5千の大軍を最終的に2千の兵奇襲し勝利した桶狭間の戦い。この世紀の奇襲はこの清州城から信長以下わずか6騎で飛び出した…。

実は前日今川義元勢の進軍に明日には「鷲津と丸根を攻撃するであろう」という乱波からの情報を受けていながら集まった家臣達に何のも与えず「夜も更けたし帰ってもよいぞ」とばかり早々と寝入ってしまった信長。

運の末には知恵の鏡も曇るとは比節なり」と家老衆は半ば嘲笑いながら帰ったといいます。

家臣団のやるかたない不平不満が聞こえてきそうですね。

翌朝、その情報どおりに今川義元勢が鷲津と丸根を攻撃していると再度の報告が清須城にもたらされた後の信長の行動(立ったまま湯漬けを食らう→鎧兜・具足を装着→取りあえず最多人数″6人?”で出陣)が子気味良くて良いですね。戦国に生きるならこれくらいの才覚が欲しいところです。

桶狭間の戦いの跡地

桶狭間の戦いの跡地

 

また1562年(永禄5年)には、信長と徳川家康との間で同盟がこの城で結ばれる等(清洲同盟)永禄6年(1563年)に美濃国斎藤氏との戦に備えて小牧山城に移るまで,10年あまりを清洲城を居城としていました。

清洲会議

天下統一目前だった織田信長が 天正10年6月2日早朝 京都本能寺で、家臣の明智光秀の謀反により自害。

しかしそれから1ヶ月も経たない同月、6月27日。世に言う清洲会議が行われた、のもこの清洲城でした。

結果としては、

織田信忠嫡男の 三法師を擁立した秀吉と信孝を擁立した柴田勝家の確執が深まる一因となり賤ヶ岳の戦いに繋がっていくのですが、ここでは秀吉の発言力が勝家のそれよりも強いと思われます。

やはり備中松山城での毛利との戦いを交渉により素早くおさめ山崎の戦いにおいて明智光秀の軍を打ち破り主君の仇討ちを果たした秀吉は、この会議の結果、今まで織田軍団において発言力も領地も家中ナンバー1だった勝家を実績において凌駕してしまったんです。

三法師を擁する秀吉~清洲会議の一場面(絵本太閤記)/日本城郭資料館所蔵

三法師を擁する秀吉~清洲会議の一場面(絵本太閤記)/日本城郭資料館所蔵

 

またこの会議において清洲城は次男・織田信雄が相続しました。

この後、秀吉の転封令が信雄に下りましたが(尾張から駿河国駿府への転封)これを拒絶した信雄は改易され、豊臣秀次の領地に編入後、福島正則の居城となりました。

 

福島正則

柴田勝家との賤ヶ岳の戦で 加藤清正等と賤ヶ岳の 七本槍と言われた福島正則。
その後も 「小牧牧・長久手の戦い」1584年(天正12年)、「四国征伐」1585年(天正13年)で勝ち戦を修めます。

1595年(文禄4年)豊臣秀次に秀吉よりの切腹 命令を伝え切腹を見届けると、秀次の代わりに尾張領地24万石を統治。清洲城を居城とします。

また 「九州征伐」  1587年(天正15年)や、 「小田原征伐」  1590年(天正18年)、『 朝鮮遠征・文禄の役』1592年(文禄元年)でも勝利し、豊臣家中にはなくてはならない存在になっていきます。

その後、秀吉の死。石田三成との確執から 次第に家康に近づき信頼感を深めて行ったのは三成への目先の遺恨にとらわれ、結果豊臣家を滅亡に追いやる遠因になっても行き、勇猛だが単純。

特に小山評定では豊臣普代の大名に及ぼす正則の影響力。それを杞憂する家康の意を受けた黒田長政が正則が家康側に着くことをあらかじめ説き伏せたと言われています。

『自分は家康どのにお見方いたす!』

結果、清洲城が東軍の後方拠点の城となってしまうのはどうなのでしょうね。その後は関ヶ原の戦いで東軍勝利家康が征夷大将軍大阪夏の陣豊臣家滅亡に繋がって行きます。

 

その後の清洲城は?

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清州の廃都と名古屋遷都

その後、慶長12年(1607年)には家康の九男徳川義直の居城となり、その城下町は人口は6万人に及び朝鮮通信使の記録においても「天下の名城」と称賛された程でした。

しかし、ここに来て城の大規模なリノベーション計画が持ち出された際、家臣の山下氏勝が名古屋の地への移転を進言。
理由は『洲は低地の為洪水や水攻めを受け易く、城下も狭い、対して名古屋は高台で、熱田に近く交通の便も良い』と言うものでした。

家康はこの案を採用。慶長15年(1610年)より清須の城下町はそのまま名古屋城下へと移転されました。後に『清洲越し』と呼ばれますが、町人・商家・職人・武士・社寺等が移動して名古屋という都市を作ったんですね。約100の寺社、67の町、およそ6万人が名古屋へと移されました。

結果、『名古屋』という城下町が新たに出来上がり清須城は廃城。『清洲』は美濃路の宿場町といった位置付けになりました

また、名古屋城の築城にあたり清須城を構築していた建築材の中で利用出来るものは築城の資材として再利用されました。
特に、名古屋城の『御深井丸西北隅櫓』は清洲城の天守または小天守を移築したものと伝えられているため「清洲櫓」とも呼ばれています。

御深井丸(おふけまる)の北西隅に現存する戌亥隅櫓(西北隅櫓

御深井丸(おふけまる)の北西隅に現存する戌亥隅櫓(西北隅櫓)

 

現在の清須城

現在清須城は、平成元年(1989)、旧清洲町(現在は清洲市)の町制100周年の記念事業として、再建され、新たに「清洲城」と命名されました。令和となった現在も長寿命化等改修を目的とした第二期工事が行われています。

天守閣を初め城自体の図面や復元の為の資料が現存していない為、安土桃山時代の城の様式を元に想像した模擬天守閣

長浜城伊賀上野城浜松城なども模擬天守閣で日本全国では52城あるんですね

名古屋城と同じく屋根には金の鯱が飾られ城内は?というとちょっとした博物館

清洲城天主閣1階清洲城1階展示室

~朝日遺跡の古代から尾張国の守護所の時代を経て「清須越」から現在に至る清須の歴史を紹介~

・清須の歴史コーナー(古代黎明期から中世、近代から現代)
清洲朝日遺跡で発掘された土器の展示。
尾張ゆかりの刀工、伯耆守藤原信高の脇差をはじめ、刀、槍、拵、火縄銃、兜、手造り甲冑などの展示。

※10月の1ヶ月間、1階展示室は「清洲城特別展示」開催の為、展示内容が変更されます。
清須市在住の方のコレクション特別展示、刀剣類、武具、火縄銃、拵、浮世絵など。


清洲城天主閣2階

清洲城2階展示室

~関東の巨鎮・清須の全貌を体感する~

清須の歴史、清須城、清須ゆかりの武将などをジオラマシアターや展示で紹介します。

・清須城下バーチャルウォーク、戦国武士の暮らし、信長公の清須城下、ジオラマシアター「清須城物語」、信長公の城下政策、信長公はじめて物語・・・

・尾張三作の一人清須ゆかりの刀工、相模守政常入道の平三角笹穂造の槍(重要刀剣)の展示。
甲冑の展示。


清洲城天主閣3階

清洲城3階展示室

  • ~清須が育んだ先人たちの偉業にふれる~戦国の華「清須の佳人たち」、映像シアター「歴史の扉~清須会議~」、吉例・清須出世物語、高札場 戦国中日スポーツ新聞、信長公顕彰コーナー、体感シアター「桶狭間の戦い」、火縄銃体験シアター「戦術革命 長篠・設楽原の戦い」、大河ドラマ戦国史・・・・清須の歴史を紹介する紙芝居コーナー(土日祝日に上演)
    土曜日、日曜日、祝日には「おもてなし城代」による紙芝居を上演します。
    1・「清須会議」
    2・「織田信長物語」


    清洲城天主閣4階

    清洲城4階展示室 ~清須の天主で浩然の気を養う~

    天下一吉例コーナー、清洲城再建のあゆみ、清須からくり望遠鏡・・・

    天主閣4階からは濃尾平野が一望出来き、元旦には初日の出がみられます

””清須市観光協会ホームページより抜粋””

ま と め

日本の歴史上最も過激でハイテンションな時代と言ったら、1467年に起きた「応仁の乱」から、徳川家康が江戸幕府を開く1603年のまでの間の約140年間ではないでしょうか。

今日の栄華も、先を見る目と力がなければ下だと思っていた者にあっという間に食い荒らされてしまう待ったなしの下剋上。

そこには由緒ある者よりも、才覚のある者が王になっていく分かりやすい時代でもあるのですが、わかりやすい時代だからこそ、そんな中から這い上がってきた者はどこか魅力的。

公園を見下ろす信長像

公園を見下ろす信長像

 

織田信長はじめ、豊臣秀吉や徳川家康の最終目標は天下統一。

その天下統一と清州城は何らかの形でリンクしていましたし、今もこれからも戦国時代のドラマには絶対出てくる城です。(現在はNHK 大河ドラマ麒麟がくる』に出てきますよ)

壮大な過去に思いを馳せながら清州城を訪れましょう!

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